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中林香が贈る女性のための心と体と車のブログ

元・女性レーシングドライバーの中林 香(なかばやし かおる)が、クルマの運転はもちろん、元スポーツ選手としての経験と、大学で心理学を専攻して得た知識をもとに、よくある心の問題やちょっとした体の不調との向き合い方、ストレスの対処法など、ココロとカラダに優しい生活をおくるための知恵やテクニックをご紹介します。

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他人のドラマに巻き込まれない
ココロの話, 人間関係

他人のドラマに巻き込まれない

人間関係においてもっとも難しいことは、前回の記事にも書いたように、他人のドラマに何かしらの役割りやキャラクターを持って参加している自分の存在を、自分自身は正確には把握できない・・・ということなのかもしれません。

わたし達は生きていくうえで、誰しもが他者との関係性の中でさまざまな選択や行動を行っていかざるおえないという存在なわけですから、自分の人生に関わってくる人々とは、互いに自分のドラマに相手を招いて自分のストーリーを展開しているのだとも言えるでしょう。
この、他者の中で何かしらの役割りやキャラクターを演じている「自分」が、どの程度本来の自分自身に近いのかどうかは、そのドラマを作り上げている相手の気持ちや観察力、そして世界観によって決まる部分も大きいのではないでしょうか。
自分自身であるにもかかわらず、自分にとってあいまいで理解しにくく、ある意味勝手に動き回っている「他人の中のわたし」という存在は、人間関係をとても複雑に、そして難しくしているのではないかと思います。
もちろん、この「他人の中のわたし」は、関係者全員がおたがいに持っているものなので、「わたしの中の誰か」が本当にその人本来の姿なのかどうかについても、同じようにあいまいで正確かどうかの判断が難しいわけです。
人が互いに、自分のフィルターを通して、自分の世界観からものごとを理解し、それぞれ独自のストーリーを展開している折り重なった現実の中では、ストーリー自体はみな似通っていて出来事として同時進行でありながらも、相手の言動が全く理解できないというような状況が起こるのも不思議ではないのかもしれません。
ですから、誤解を恐れずにいえば、「他人の中のわたし」がどのような存在であったとしても、それが100%わたしの責任であるとも言えないし、また、わたしの中の他人についても同じことがいえるのではないでしょうか。
わたし達が人間関係において何かしらの問題を抱える時には、もしかしたらこの「他人の中のわたし」や「わたしの中の誰か」に大きなズレが起こっていて、その責任を必要以上にその相手に求めているのかもしれませんよね。
「お互いの中の自分」が、そのドラマを作り上げている人自身を含めた、もしくはその視点からのみ判断された存在である以上、たとえドラマは同時進行で同じ現実を共有していたとしても、「相手の中のわたし」の言動の根拠が自分のものと全く同じであるとは言い難いのかもしれません。
そして「他人の中のわたし」がどういったポジションで、どういうキャラクターで、何の役割りを演じているのかがよくわからないまま相手との認識にズレを感じると、わたし達はこういった相手のドラマに簡単に巻き込まれてしまいがちなんです。
人間関係の中で起こりがちな多くの問題は、このお互いの認識のズレを解消しようとして、自分自身を追い詰めたり、他人を批判したりというような形で現れてくるものなのかもしれません。
特に他人のドラマに巻き込まれやすい人は、「他人の中のわたし」や「わたしの中の誰か」の言動の正しさにこだわりやすく、またものごとに対してつねに完全性を求めるというような傾向があるように思います。
「他人の中のわたし」や「わたしの中の誰か」に正しさを求めすぎてしまうと、相手のドラマの影響力が大きくなりすぎて、自分のドラマの進行にも支障が生じることになりかねません。
つまり、必要以上に「わたしの中の相手」の言動を納得できるものにするために、または「相手の中のわたし」に無理に同化しようとして、本来の自分を見失ってしまう危険性があるということなんです。
他人に理解されることや承認されることは、とても気持ちがよく嬉しいことですが、それが人生の目的のようになってしまうと、自分の人生に対しての主体性が無くなって、誰のための人生なのかわからなくなってしまいますよね。
自分の人生を生きているわたし達にとって、もっとも大切なことが、自分自身のドラマの中で主体性を持って生き生きと活動し、自分にしか上演できない唯一の舞台を作り上げることなのだとしたら、あまりにも他人のドラマの内容にとらわれてしまい、大切な自分の人生という舞台をおろそかにすることは、それこそ本末転倒なのではないでしょうか。
ですからもし、わたしが「相手の中のわたし」に対して違和感を覚え、より本来の自分に近づけたいと思った場合、わたしにできることといえば、自分の気持ちや考えをつねに相手に対して直接伝えていくことでしかないのかもしれません。
それで全てがすっきりと解決するとは言い切れませんが、少なくとも直接相手に「伝える」という現実の出来事はその相手と共有するコトができます。
その上で「相手の中のわたし」に対して感じる違和感がまだあったとしたら、それ以上その「相手の中のわたし」に対して責任を感じる必要はないのかもしれないし、また、その存在を本来の自分に近づけるコトは相手のドラマの進行上とても難しいことなのかもしれませんよね。
ただし、この「他人の中のわたし」が自分が思っている「わたし」と食い違っているからといって、ただ簡単に無視すればいいとか、相手がわかっていないだけだと決め付けてしまえばいいということでもないと思います。
お互いの違和感を解消するために相手をもっと理解しようと努力をするとか、自分自身がどういう人間なのかを客観的に考えてみるというプロセスは、実はわたし達を飛躍的に成長させてくれるものなのです。
ですから、この「他人の中のわたし」との違和感は、自分自身を新しい、他人の世界観という領域から見つめなおしてみるチャンスであり、自分の世界観をひと回り大きくできるかもしれないというプラスの側面もあるといっていいでしょう。