人の適性や適職を知るには、その人が子どもの頃、何をしているときが1番楽しかったのか、小さいときに何になりたいと夢見ていたのかが、大きなヒントになると言われていますよね。
でもわたしの場合は、小さいときにクルマや乗り物に興味があったということは全くなかったので、子どもの頃のわたししか知らない人からすると、どうしてこういう道に進んだのか、すごく驚かれてしまうんだろうなぁと思います。
小さい頃は、自然の中で遊ぶのもとても楽しくて好きでしたが、1番好きだったのは本を読むことでした。
本さえあれば何時間でも飽きずに1人でいられたし、本の世界に入り込んでドキドキ、ワクワクしたり、そのまま空想の世界で遊んだり、食べるのも寝るのも忘れるほど楽しかったように思います。
小学校1年生の頃に、『少年少女世界の文学』という、全30巻くらいの立派な全集を買ってもらい、それからは毎日、学校から帰ると何時間も世界中の色々なお話の世界を旅していました。
本は1巻づつ地域別(アメリカ編とかイギリス編、日本編など)となっていて、1巻にあまり長くない話は数話ずつ、長いストーリーは1話分がそのまま収録されていました。
当時はまだ1年生だったので、読めない漢字や意味のよくわからない言葉も結構出てきたはずなのですが、なんとなく意味を想像しながら読み進めるのも楽しかったし、まだ見たことも行ったこともない世界中のいろんな国の情景をイメージするのもとても面白かったんだと思います。
この全集に出会ってからは、それこそ乱読と言っていいほど、色んな本を読み漁りました。学校の図書室や、図書館の本を片っ端から・・・という感じです。その当時、何を読んでいたのかは、今ではほとんど覚えていませんが、大人になってから本を読んでいる時に、記憶にあるフレーズなどが出てきて昔読んだことを思い出す場合がけっこうあるので、そうとう理解不能な哲学系の本まで読んでいたように思います。
それじゃあ、わたしの子どもの頃の夢は小説家か作家か、もしくは出版社勤務だったのかというと、これがそうではなくて、なんと・・・「お嫁さん」でした。
お嫁さんが将来の夢だったなんて言うと笑われてしまいそうですが、当時のわたしには、料理がとても上手くて、お家もいつも綺麗に整頓されていて、どんなものでも魔法のように針と糸で作り出してしまう自分の母親が、すごく羨ましくて、いつかわたしもそうなりたいなぁと思っていたんだと思います。
友達とのおままごとでは、いつもお母さん役がやりたくて、赤ちゃん役の時なんかは、ちょっとやる気がなかったです。(笑)じゃんけんでお母さん役が当った時は、それはもう張り切って、朝食の泥団子も思いっきり気合を入れて作ってましたし、ご主人(役の男の子)を仕事に送り出す時も、三つ指をついて「いってらっしゃいませ♡」と頭を深々と下げ、その後もけなげにご主人が見えなくなるまでずっと、「お気をつけて~♪」と手を振ってお見送りをしていました。
わたしの適性や適職が本当に「お嫁さん」なのかどうかは、いまだに謎ですが・・・、わたしが実際に進んだ道は、小さい時に好きだったことや、子どもの頃の夢とあまりにも違うので、人生って予想がつかなくて面白いものなんだなぁと思います。
投稿者: 管理人
新しいサブ・カテゴリー作りました
新しく、「わたしの話」というサブカテゴリーを作ってみました。
このカテゴリーでは、主にわたしの生い立ちや、今までの経験の中で記憶に残っていることなどをUPしていきたいと思っています。
カテゴリーばかり増やして、それぞれちゃんと記事が書けるのか・・・ちょっと不安ですがのんびり少しずつでも書いていきますので、どうぞ気長に見守ってやってください♪そこで、さっそくですが「わたしの話」に記事をUPしました。
「子どもの頃の夢」
「いちばんゆっくり過ぎていった時間」
わたしの幼少期の頃のお話です。
最近、わたしの原点は実はここにあるのかなぁとも感じていたりします。
子どもの頃の心に残る思い出って、ホントに大切なものかもしれませんね。
いちばんゆっくり過ぎていった時間
わたしが今まで生きてきて、いちばんゆっくり時間が流れていたように感じるのは幼稚園から小学校低学年にかけての数年間、海の近くに住んでいた頃です。
2歳くらいから10歳までの8年間、神奈川県の茅ヶ崎という場所に住んでいました。
家が海のすぐそばで、いつも潮の香りを感じながら、友達と木登りをしたり、ザリガニやオタマジャクシを捕ったり、一面のレンゲ畑で首飾りをつくったりして遊んでいました。
季節の移り変わりにしたがって、遊ぶエリアが変化したり、その時期ならではのイベントたとえば春の花摘み、夏の虫取り、秋の枯れ草潜り、冬の霜柱踏み・・・などが本当にとても楽しかったのを、今でもよく覚えています。
わたしの家から海に行くには、距離は近かったのですが、交通量の多い国道を渡って、防風林の松林を越えていかなければならなかったので、子どもだけでは行くことはなくて、親に一緒に行ってもらったり、友達のお母さんとみんなで一緒に行ったりしていました。
なかでも1番、わたしの記憶に残っている海遊びは、小学校の授業時間内に担任の先生が「校長先生には内緒だよ!」と言いながら海までこっそり連れて行ってくれて、クラス全員で海岸で海草を取ったり、手づかみで小さな魚を捕まえたりして遊んだ『課外授業』でした。
わたしが3年生まで通っていた茅ヶ崎市立西浜小学校は、本当に海のすぐそばにあるのんびりした小学校で、友達も先生もみんなおっとりしていて、人見知りでおとなしかったわたしにとって、とても居心地の良い環境だったように思います。
授業時間をサボっているので、期末試験は当然、生徒全員が全く出来ず悲惨な状態でしたが先生は何気なくそれぞれの答案を覗き込んで、なんと正解を教えて回ってくれました(笑)今の時代なら、もしかしたら問題教師になってしまうかもしれないような型破りな先生でしたが、わたしにとっては、いまだに忘れられない1番好きな先生ですし、当時も、もっとも自分たちの気持ちを理解してくれて、信頼できる身近な大人だと感じていたように思います。
型破りな先生と、のんびりした友達たちと、四季折々の遊びと、海からの潮の香り・・・・わたしの人生の中で、いちばんゆっくり過ぎていった時間は、今でもわたしの宝物です。
そんなのんびりしたわたしの子ども時代と比べると、今の都会の子どもたちはみんな忙しくて、遊ぶ場所も限られてしまっていて、なんだか余裕が無くて可哀想な感じがしてしまいます。
道路はほとんど舗装されていて虫も顔を出せないし、川にはフェンスが張り巡らされていて近づくこともできない。綺麗に剪定された街路樹にも登れないでしょうし、広場のような遊び場もほとんどなくて、きちんと管理された公園に親と一緒に遊びに行くくらいしか、小さな子どもが外遊びのできる環境がないように感じてしまいます。
親の方も、子どもがもし事故に遭ったら、誘拐されたら、不審者が現れたら・・・と不安が多くて外に遊びに行かせるくらいならと、ゲームなどで家で遊んでくれる方がまだ安心だという考えになってしまっているのかもしれません。
今の子どもたちにとって、ゆっくり過ぎていく時間はあるのかなぁ、大人になった時に、自分の子ども時代をどんな風に思い出すのかなぁと、自分の子ども時代を思い出してみて、なんとなく、ふと・・・そう感じました。
08年6月1日施行の道交法改正について
08年6月1日から施行された道交法改正についての記事、ずいぶん遅くなってしまいました。
今回の改正は大きく分けて、自転車対策、高齢者対策、被害軽減対策が柱となっており、わたし達が特に注意するべき部分としては、自転車の歩道通行区分が明確化されたことで、それ以外の条件下では自転車は車道を走行しなければいけないことがあらためて明示されたこと、そして後部座席のシートベルト着用の義務化といったところでしょうか。
今後は、タクシーやバスなどでもシートベルトの全員着用が義務付けられます。
ちょっと面倒かなぁとも思いますが、万が一事故に遭った場合には、シートベルトのおかげで助かるケースも多いのですから、きちんと着用するようにしなければいけませんね。
自転車の走行区分については、今まで歩道の走行が違反だと知らなかった方も多いのではないでしょうか?
改正後も、歩道をわがもの顔で、歩行者を縫うように爆走する自転車をたくさん見かけますが、自転車が歩行者とぶつかり、歩行者に怪我を負わせたり、死亡させてしまった場合の賠償金は、相当な金額になります(死亡事故で5000万の賠償金の支払いが命じられた例もあります)。
自転車は特に、自動車のように自賠責保険への加入が義務付けられていないし、任意保険に加入して乗っている人も少ないと思いますので、事故を起こしたときにはとんでもないことになりかねません。
車道を自転車で走るのは、クルマがクラクションを鳴らしたりして怖いという意見も多く聞きますが、今後は、クルマのドライバーも自転車の車道走行をきちんと理解して、譲り合って事故のないよう、お互いに気をつけなければいけませんね。
-以下 警察庁HPより転載-【自転車利用者対策】1. 普通自転車の歩道通行可能要件の明確化自転車は、自転車通行可の標識のある歩道以外の区間は基本的に車道を通行することになっていますが、今回の改正で以下の条件下において歩道を通行できることになりました。
・道路標識等で指定(歩道通行可)された場合
・運転者が児童・幼児(13歳未満の子ども)の場合・運転者が70歳以上の場合・運転者が身体に障害のある場合・車道又は交通の状況からみてやむを得ない場合※歩行者は、「普通自転車通行指定部分」をできるだけ避けて通行するよう努めなければなりません。
2. 乗車用ヘルメット着用努力義務の導入児童又は幼児を保護する責任のある者は、児童・幼児(13歳未満の子ども)を自転車に乗車させるとき、補助イスなどで同乗させるときは、乗車用ヘルメットをかぶらせるように努めなければなりません。
3. 地域交通安全活動推進委員の活動の見直し地域交通安全活動推進委員の活動に、「自転車の適正な通行の方法について住民の理解を深めるための運動の推進」が加えられ、自転車の通行ルールに関する広報啓発や街頭活動が活性化されます。
【高齢運転者対策等】・75歳以上の者及び聴覚障害者の保護・75歳以上の者及び聴覚障害者は、普通自動車を運転する場合、それぞれ内閣府令で定める「高齢運転者標識」、「聴覚障害者標識」を表示しなければなりません。
だだし、「聴覚障害者標識」の表示は、ワイドミラーの装着を条件に免許を取得した者が対象となります。
・また、これらの標識を表示した普通自動車に対する幅寄せ等が禁止されています。
《罰則等》・対象者が高齢運転者標識・障害者運転者標識を表示しなかった場合 2万円以下の罰金又は科料 4千円 違反点 1点・高齢運転者標識・障害者運転者標識を表示した車に幅寄せや割り込みをした場合 5万円以下の罰金 6千円 違反点 1点・ワイドミラーの条件に反してワイドミラーを装着しなかった場合 3か月以下の懲役又は5万円以下の罰金 7千円 違反点 2点注:何れも普通自動車の場合です。
【被害軽減対策】・後部座席シートベルトの着用義務付け※自動車の運転手は、助手席以外についても、シートベルトを装着しない者を乗車させて自動車を運転してはいけません。
※すべての座席のシートベルト着用が義務化となります。
《罰則等》罰則・反則金 なし違反点 1点注: 後部座席のシートベルト装着義務違反は、高速自動車国道及び自動車専用道路に限って違反点の対象とします。
【その他の規定の整備】(1) 公安委員会が警察署長に行わせることができる交通の規制の種類を追加する。
(2) 緊急自動車として、医療機関が市町村等により傷病者が医療機関に緊急搬送をされるまでの間における応急の治療を行う医師を現場に運搬するために使用する自動車(いわゆるドクターカー)を追加する。
(3) 指定車両移動保管機関に関する規定を廃止するなど、車両移動保管関係事務に係る規定を整備する。
※レッカー移動・保管された違法駐車車両の所有権が、告知(公示)後3か月(これまでは6か月)で都道府県に移転されます。
チャイルドシート 5年ぶり50%台回復って!?
今日のニュースで、チャイルドシートの使用率が5年ぶりに50%を超えたという記事がありました。
「チャイルドシート、5年ぶり着用率が5割超える…JAFと警察庁調査」
チャイルドシートの法制化から、もう何年たっているんでしょう?
それでもまだ、半数の保護者の方しか、チャイルドシートを使用していない・・・これは一体どういうことなのかと、首を傾げずにはいられません。
事故に遭った場合、子どもをチャイルドシートに座らせているかどうかで子どもの生存率が大きく変わってしまうのだということをなぜ多くの保護者の方は理解できないのでしょうか?
実際に事故に遭い子どもを失ってみるまで、気付かないままなのでしょうか?
交通事故は他人事だとしか思えない人が、どうしてこうも多いのか・・・運を天に任せるのみで、自衛策を講じないで平気でいられるのはなぜなのか・・・その必要性を、きちんと理解してもらえるような機会が少なすぎるのでしょうか?
そういえば私の周りにも、地震の避難用持ち出し袋も用意していない人がたくさんいます。
地震大国に住んでいるというのに、なんと悠長な・・・と驚いてしまいます。
実際に被害に遭うまでは、人は真剣にそのことと向き合うのを避けるものなのかなぁ?
どんな心理状態で、私たちは大切なことにきちんと対策しようとしないのかとても興味深いニュースだなぁと思いました。
カラダの声を聞くということ
現役のスポーツ選手を引退した後、体調不良に悩まされていたわたしは本当にさまざまな「治療法」というものに手を出しました。
スポーツマッサージ、理学療法、整体、按摩、鍼灸、ヒーリング系治療全般食事療法、絶食療法、マクロビオテック、漢方薬、アロマやレメディなどなど・・・・でも、どれも少しは効果があっても、ずっと通い続けたり、長期間継続していかなければならなくて、なんとなく納得ができませんでした。
それって、ある意味依存ですよね。その治療がなければ元気でいられないなんて、いつまでたっても本当の健康体とは言えないのではないかと・・・。
たとえば、体に歪みがあって何かしらの症状が出ている場合、整体などの物理的治療で矯正しても、すぐに元に戻ってしまうので、延々と治療し続けなければなりません。
鍼灸やマッサージは、ツボなどに刺激を与えることによって、対処療法的に痛みを軽減するだけのような気がしていました。
漢方薬、アロマ、レメディなどは、自然界の物質だから安全と言いますが、カラダに化学的な作用を及ぼしているという意味では、西洋医学の薬と結局は同じことではないかと思いました。
食事療法、マクロビオテック、絶食療法などは、楽しんで続けられれば良いとは思いますが、あまりにも厳格に食べ物に神経を尖らしていると、それがまた精神的に負担になってしまい、本末転倒のような気がしました。
また、わたしは2週間の長期絶食を2度やったことがあるのですが、絶食中にものすごい幸福感と、何でもできてしまうような全能感を味わってしまって、これはちょっと危ないなと思いました。絶食を始めて数日たつ頃から、脳内で自家製の麻薬物質が分泌されるのだそうです。
それ以外にも、サプリメントや健康食品の類も散々試しましたが、納得のいくようなものには結局出会えませんでした。
でも今は、体中の痛みが無くなっていて、数年前よりもずっとずっと元気です。
20代前半から長年悩まされていた首と肩の痛みや腰痛も、今はすっかり無くなっています。
どの治療法もダメだったのに、どうしてそんなに調子が良くなったのか言いますと・・・2年ちょっと前に、今通っている大学に入ってから、学校が終わった後、家まで歩いて帰っているだけなんです。(少し早足で歩いて、およそ1時間くらいの道のりです)ただし、ただダラダラと歩けば良いというわけでは無さそうで、歩いている間ずっと、どこの筋肉と骨を使っているのかをキチンと意識し、背筋を伸ばして良い姿勢を保ちながら、全身を使って上手に歩くことがポイントのようです。
そして、普段の生活の中での深い腹式呼吸もとても効果があるように思います。
呼吸をするとき、息を全部きれいに吐き切ることができないと、カラダが必要としている分量の酸素を、呼気で吸い込むことができないのだそうです。
そうなれば、わたしたちのカラダはずっと酸素不足で、脳にも、どの臓器や筋肉にも負担を掛け続けることになってしまいます。
本当に基本的なことですが、生きているということは、息をしているということですしカラダを動かすからお腹が空いて、夜には良く眠ることができるように思います。
やらなければいけない基本的なことがいい加減なまま、薬や治療やヒーリングに頼って、その場限りの気持ち良さに甘えていながら、健康になりたいだなんて、今から考えてみれば、自分のカラダにかえって申し訳ないことをしてしまっていたんだなぁと、いまさらですが少々反省しています。
体調が悪くなると言うことは、わたしのカラダの使い方の何かが間違っているという、カラダからのメッセージだったんだと思います。その間違いに気付いて、それを正そうと努力することでしか、本当の健康は得られないように思います。
とてもとてもシンプルな方法ですが、実践してみて、その効果は絶大でした。
体調不良に悩んでいる方は、一度試してみてはいかがでしょうか。
健康に生きていくために必要なことは、巷に溢れる健康情報に踊らされることなく、キチンと自分のカラダの声を聞いて、それに答えることだと思います。
更新情報
4月に無事進級してから約2ヶ月・・・・大学3年生の時間割にもだいぶ慣れてきました。
というわけで久々の更新情報です。(汗)カテゴリー ココロの話 人間関係「言葉とコミュニケーション」
カテゴリー カラダの話 健康「カラダの声を聞くということ」
最近、「言葉」について、色々と考えさせられるような経験をしました。
わたし自身は、「言葉の力」の影響をけっこう受けやすいタイプみたいです。(笑)わたしは、ものすごく辛い時、もうダメだと思った時に、何度か「言葉」に救われたことがあります。多分、その言葉を発したご本人にとっては、何気ない一言であってたいした意味も無いような、ありふれた会話の一部に過ぎなかっただろうと思います。
けれど、わたしはその言葉に勇気付けられて、また立ち上がることが出来た・・・・。
そんな風に、知らないうちに、わたしの恩人になってくださっている方が何人かいます。
面白いなーと思うのは、そういう何気ない一言で救ってくれる人は、1度だけではなく何度も違う場面で、本人が気付かないまま、いつもわたしを救ってくれているんです。
それも本当に絶妙なタイミングで・・・。
最近また、「あぁ、この方はそういう人なんだわ!」と気付いた方がいらっしゃいまして密かにその方に対して全幅の信頼を寄せています。もちろんご本人は多分、全く何もご存じないと思いますが・・・。
本当はとても感謝していて、それを伝えたいんですけれど、ご本人がそんなつもりで発した言葉ではないだろう一言に、あまり強烈に感謝の気持ちを表すのもかえって不自然なような気がして・・・、こういう場合は、感謝するのもなかなか難しいです。
ところで、あと1週間で6月に入りますね。
6月1日から、道路交通法の改正が実施されます。
今回の改正では、自転車の走行区分と後部座席のシートベルトについての変更があります。
詳しくはまた、近いうちに記事にしたいと思っています。書く時間があれば・・・・。(汗)
言葉とコミュニケーション
人と人とのコミュニケーションにとって無くてはならないのが「言葉」ですよね。
心理の教科書によると、人のコミュニケーションの方法には言葉によるコミュニケーション=バーバル(言語的)コミュニケーション
言葉以外の、表情や身体の動き、声の調子などによるコミュニケーション
=ノンバーバル(非言語的)コミュニケーション
と言う、2種類の方法があるとされています。
このうち、バーバルコミュニケーションのウエイトは、たった5~15%であるとされていて、発する言葉自体よりも、言葉以外で交わしているコミュニケーションの方が圧倒的であると言われています。
確かに、言っている内容と態度が違うと感じたとき、私たちは態度の方を受け取ることが多いように思います。たとえば、「ごめんなさい」をふて腐れた態度で言われたとしたら、「あぁ、この人は自分が悪いとは思っていないんだな。」と感じるものですよね。
日本は特に、「察する文化」です。言わなくてもわかって欲しい、察して欲しい・・・決定的な「言葉」ではなく、雰囲気を察することで、周囲の人間と調和を図ろうとする、ある意味大人な、平和的な国民性だと思います。
少し前に流行っていた「KY(空気読めない)」という言葉も、そんな国民性を象徴しているようだと思いました。
けれど、言葉について、皆さんはこんな経験をしたことってありませんか?
「あの一言で、なんだか救われたような気がした。」
「たった一言の励ましで、とても元気になれた。」
「あの言葉が胸にグサッと突き刺さって、忘れられない。」
「あの一言で、何もかも嫌になった・・・。」
人と人とのコミュニケーション方法は大変複雑で、お互いの立場や関係性、性別、地域性や文化などによっても、ずいぶんと違うものになってしまうのではないかと思います。
1つの同じ仕草が好意的な意味だったり、敵対的な意味だったり・・・、そういう風に、表情、仕草、態度、声の調子などのノンバーバルなメッセージだけでは、相手によっては全く違う意味に捉えられてしまうことも結構あるのではないかと思います。
ですから、私はやはり、「言葉」はとても重要なコミュニケーションツールだと感じています。
特に、インターネットなどによって、世界中の人たちと直接、いつでもコミュニケーションできるようになった現代社会では、つまらない誤解で傷つけ合わないようにするためにも、私たちは「言葉」の持つ力を、もっと真剣に考えなければならないのではないでしょうか。
誰かに何かを伝えようとして言葉を発する時・・・、その言葉が本当に自分の伝えたいことを表している言葉なのか?
その言葉について、自分と相手の感受性は一致しているのか?
その言葉の持つ力が、お互いの関係性にどう影響を及ぼすのか?
そういったことを、きちんと意識しながら言葉を大切に選ぶと言うことが、相手との関係を良好に保つために、とても重要なことだと思います。
自分の何気ない一言が、知らないところで誰かを深く傷つけているかもしれないしまた逆に、誰かを勇気付け、励まし、助けていることもあるかもしれません。
「言葉には、そういう大きな力があるのだ」ということを、なるべく意識していつでも、誰に対しても、自分の発する「言葉」にキチンと責任を持って、「言葉」を大切に使っていきたいものですね。
2年生終了
ブログを1年以上、すっかり放置してしまいましたが・・・・先週末、後期試験が終わって、ようやく無事に大学2年終了しました。
この1年は、1年生の時とは比べ物にならないほど忙しい毎日でした。
でも、おかげで勉強の長いブランクを埋めることができてさらに色々と収穫もあった、とても充実した1年になりました。
1番の収穫は「勉強のコツ」に気づく事ができたということです。
今まで「コツ」っていうと、どちらかというとHow to(どうやってやるか?)というニュアンスで考えてしまっていました。
これは何をやる場合でもそうなんですが、さまざまな情報が氾濫していて本やネットを通じてどんな情報も簡単に手に入れられる現代社会では何かのものごとを始める時、何かをやろうとする時にまず最初にHow toから入ろうとすることが多くなっているように感じます。
たとえば受験勉強なんかはその最たるものなんじゃないでしょうか。
入試を考えると、どうしても「どうやって志望校に合格できる点数を稼ぐか?」という勉強の仕方になってしまうのは仕方の無いことなのかもしれませんが・・・。
わたしもつい最近まではずっと、ものごとをそういう風に考えていたように思います。
巷に溢れている「簡単に~できる方法」のような本や雑誌の類はすべてこの、「どうやって?」を中心に書かれてますよね。そして、本のタイトルを見るとそれを読めばどんな事でも簡単に出来てしまうように錯覚してしまいがちです。
たしかに、「方法」さえ知れば出来ることもあるとは思いますが、実際には、方法の知識だけでは応用が利かず、すぐに行き詰ってしまう事も多いです。
それじゃあ、いったい何が1番大切だとわたしが気づいたのかといえば、What・・・つまり「それは何なのか?」に正面から向き合うということです。
この、「それは何なのか?」を自分なりに追求し、知ろうとすることそのものごとの本質を見極めようとすることそれが「コツをつかむ」ということなのではないかと思います。
「コツ」という言葉は、もともとは「骨」のことを指しているそうです。
つまり本質であり、土台であり、核の部分です。
家を建てる場合でも、基礎工事がしっかりできていなければ欠陥住宅になってしまいます。私たちの知識も同じことです。
勉強もそうですが、対人関係であっても、健康や美容であってもその本質を知ることが最も重要なことだと思います。
How toとは違い、本質を見極めるのはひじょうに難しいことです。
本当にコツを掴めているのか、まだまだ浅い理解なんじゃないかと常に試行錯誤や日々の地道な努力を繰り返していかなければなりません。
けれど、そういう風にものごとをとことん見つめていくと、ある瞬間、閃きのようにストンと自分の中に落ちてくるものがある・・・。
これから少しずつ、私の中にストンと落ちてきた閃きを、このブログに自分の足跡として書き残していきたいと思います。
わたしにふれてください
素敵な言葉で綴られた、温かくてやさしい詩を読みました。
最近、大学で発達心理や保育内容の授業を受けていて強く感じていたのは、幼い子ども達が最も必要とするのは結局、「人の温もり」なんだなぁということでした。
それが満たされないまま成長してしまうと、大人になった後他人との関わり方に何かしらの影響があるようです。
子どもの頃にたくさん抱きしめられて育つ事の大切さを最近、私自身も痛感しています。
人とふれあうことで得られる安心感と満足感は、他のどんな事でも得られない、幸せな感覚だと思います。
子どもの頃に何らかの理由でそれが満たされないと、大人になった後、他人とのふれあいに対して不安感やこだわり、強い欲求などを感じやすいのかもしれません。
また、ふれあうことに必要以上の照れや性的な意味を感じてしまって苦手に思いやすいということもあるかもしれません。
けれど、いくつになっても、大切な人たちとのふれあいはわたし達の健全な精神にとってとても重要なことです。
それを自然に求めたり与えたり出来るような人間関係をわたし達はつねに求めているのではないでしょうか。
・*:..。♡*゚¨゚゚・*:..。♡*゚¨゚゚・*:..。♡*゚¨゚・*:..。♡*゚¨゚゚・*:..。♡*゚¨゚゚・「わたしにふれてください」もしわたしがあなたの赤ちゃんならどうぞ、わたしにふれてください今までわたしが、知らなかったやさしさをあなたからもらいたいあふろにいれてくださいおむつを替えてくださいおっぱいをくださいきゅっとだきしめてくださいほおにキスしてくださいわたしの体をあたためてくださいあなたのやさしさとあなたのくれる快楽がわたしに安心と愛をつたえてくれるのですもしわたしがあなたのこどもならどうぞ、わたしにふれてくださいいやがるかもしれないし拒否するかもしれないけど何度もそうしてくださいわたしがどうしていやがるかわかってほしいからおやすみなさい、と抱きしめるあなたの腕がわたしの夜を甘くしてくれる昼間にみせてくれるあなたのやさしさがあなたの感じる真実を伝えてくれるもしわたしがあなたの思春期のこどもならどうぞ、わたしにふれてくださいもう大きくなったのだからなんていわないでくださいあなたがわたしにふれるのをためらうなんて思いたくないあなたのやさしい腕が必要ですあなたのおだやかな声をききたいのです人生は困難なもの、とわかったいまわたしの中の小さな子どもがあなたを必要とするのですもしわたしがあなたの友達ならどうぞ、わたしにふれてくださいあなたがだきしめてくれるとわたしはあなたにとって大切な人だとわかるからあなたのやさしさが、おちこんでいる私もかけがえのない存在であることを思い出させてくれるからそしてひとりではない、と思い出させてくれるからわたしにやすらぎをくれるあなたのありようそれだけがわたしが信じられるものもしわたしがあなたのセックスの相手ならそうぞ、わたしにふれてくださいあなたは、情熱さえあれば十分と思うかもしれないでも、あなたの腕だけがわたしの恐れをとかしてくれるあなたのやさしくおだやかな指先をくださいあなたにふれられて、わたしは愛されているということを思い出すことができるわたしはわたしなのだ、ということを思い出すことができるもしわたしがあなたの大きくなった息子ならどうぞ、わたしにふれてくださいわたしには抱きしめるべきわたしの家族はいるのだけれどそれでも、傷ついたときにはおかあさんとおとうさんにだきしめてほしいおとうさん、あなたといるとすべてが違ってみえるわたしが、大切なわたし、であると思い出すことができるもしわたしがあなたの年老いた父親ならどうぞ、わたしにふれてくださいあなたが小さかったときにわたしがあなたにふれたと同じようにわたしの手をにぎり、わたしのそばにすわってわたしを力づけてくださいわたしの疲れた体によりそい、あたためてくださいわたしは随分しわくちゃになってしまったけれどあなたのやさしさに力づけられるどうぞ、何も恐れないでただ、わたしにふれてください
「わたしにふれてください」著者:フィリス・K.デイヴィス /三砂ちづる(訳)出版社:大和出版(文京区)サイズ:単行本/1冊発行年月:2004年09月